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聴衆に向けて★大衆的表現を押し出した フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル ワーグナー・序曲、管弦楽曲集

知識よりも情緒が音楽を響かせて、全体よりも細部が音楽をつくる。楽員はその指揮に従えば、奇跡を体験できた。

 先輩格のニキッシュから習得したという指揮棒の動きによっていかにオーケストラの響きや音色が変わるかという明確な確信の元、自分の理想の響きをオーケストラから引き出すことに成功して云ったフルトヴェングラーは、次第にそのデモーニッシュな表現が聴衆を圧倒する。当然、彼の指揮する管弦楽曲は勿論のこと、オペラや協奏曲もあたかも一大交響曲の様であることや、テンポが大きく変動することを疑問に思う聴衆もいたが、所詮、こうした指揮法はフルトヴェングラーの長所、特徴の裏返しみたいなもので一般的な凡庸指揮者とカテゴリーを異にするフルトヴェングラーのキャラクターとして不動のものとなっいる。
 この得意のリヒャルト・ワーグナーの序曲、前奏曲も、特にこうしたキャラクター丸出し。演奏も全く機械的ではない指揮振りからも推測されるように、楽曲のテンポの緩急が他の指揮者に比べて非常に多いと感じます。しかし移り変わりがスムーズなため我々聴き手は否応なくその音楽の波に揺さぶられてしまうのである。

 フルトヴェングラーは自身の著書「音と言葉」のなかで、ベートーヴェンの音楽についてこのように語っています。
『ベートーヴェンは古典形式の作曲家ですが、恐るべき内容の緊迫が形式的な構造の厳しさを要求しています。その生命にあふれた内心の経過が、もし演奏家によって、その演奏の度ごとに新しく体験され、情感によって感動されなかったならば、そこに杓子定規的な「演奏ずれ」のした印象が出てきて「弾き疲れ」のしたものみたいになります。形式そのものが最も重要であるかのような印象を与え、ベートーヴェンはただの「古典の作曲家」になってしまいます。』
 それは彼のワーグナーの演奏にも言えそうで、伝え方がフルトヴェングラーは演奏会場の聴衆であり、ラジオ放送の向こうにある聴き手や、レコードを通して聴かせることを念頭に置いたカラヤンとの違いでしょう。

FR VSM FBLP25057 フルトヴェングラー ワーグナー・序曲集《仏 セミサークル・ラベル黒文字 10インチ盤》FR VSM FBLP25057 フルトヴェングラー ワーグナー・序曲集 『タンホイザー』序曲の弦楽器の細かな動きの驚くべき雄弁なニュアンス、『ワルキューレの騎行』の迫力等、いずれも鮮やかで、ウィーン・フィルの繊細な名人芸にうならされます。録音場所もウィーン、ムジークフェラインザールで、1952年12月3日録音の『タンホイザー』序曲を一面に。1954年3月2日の『神々の黄昏』からジークフリートの葬送行進曲と1954年10月4日録音の『ワルキューレの騎行』が二面。「ローエングリン」や、「さまよえるオランダ人」序曲、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を組み合わせて数バージョンがあります。
 求心力がある演奏で、序曲だけで名作オペラの真髄を知る事ができるくらいです。曲が進むに連れ次第にドラマの深淵へと引きずり込まれてゆく。ウィーン・フィルのメンバーもオペラを理解していたし、フルトヴェングラーの伝えんとすることは心得たものだったのだ。厳粛な精神性ではなく大衆的表現を押し出した、個性が魅力。フルトヴェングラーがワーグナーをベートーヴェンの延長線上に解釈していたのが聴かれる。人間感情の吐露がワーグナーのオペラ世界の神々しさと凌ぎ合っているところに魅力を覚える。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、つねにトスカニーニ、ワルターと並称される20世紀最大の巨匠であるが、その役割は、ただ指揮者として偉大であったというばかりでなく、唯物的感覚的な今日の音楽認識世界のなかで、正統的ロマン主義を意義づけ、音楽の思弁的有機的意味を復活した、というような点でも歴史的存在なのである。

フルトヴェングラー年譜

1886年(明治19) 0歳
1月25日、ベルリンにて誕生。父は高名な考古学者アドルフ・フルトヴェングラー(1853~1907)。
1906年(明治39) 20歳
2月19日、カイム管弦楽団(現在のミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団)を指揮してデビュー。ベートーヴェンの“献堂式”序曲とブルックナーの交響曲第9番を演奏。
1922年(大正11) 36歳
1月23日に急逝したアルトゥール・ニキシュ(1855~1922)の後任として、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(1928年まで)およびベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任。
1926年(大正15) 40歳
10月16日、初録音。曲目はウェーバーの歌劇“魔弾の射手”序曲。
1927年(昭和2) 41歳
フェリックス・ワインガルトナー(1863~1942)の後継としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任(1930年まで)。
1933年(昭和8) 47歳
9月15日、プロイセン枢密顧問官に就任。11月15日には帝国音楽院副総裁に就任。
1934年(昭和9) 48歳
11月25日、ドイッチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥンク日曜版に「ヒンデミット事件」と題した論文を投稿。ヒンデミットの歌劇“画家マチス”を上演禁止したナチスと対立。12月5日、プロイセン枢密顧問官および帝国音楽院副総裁を辞任。1935年3月に両者和解し、指揮台に復帰する。
1937年(昭和12) 51歳
10月8日と11月3日、戦前最高の名盤と謳われたベートーヴェンの交響曲第5番を録音。
1942年(昭和17) 56歳
4月19日、ヒトラー生誕前夜祭でベートーヴェンの交響曲第9番を指揮。
1944年(昭和19) 58歳
12月、戦災に苦しむ同胞のためウィーン、ムジークフェラインザールにてベートーヴェンの交響曲第3番“英雄(エロイカ)”を放送用に録音。1953年にアメリカ、ウラニア社がレコード化し「ウラニアのエロイカ」として有名な録音となる。
1945年(昭和20) 59歳
1月28日、ウィーン・フィル定期演奏会へ戦前の最後の出演。1月30日にウィーンを発ちスイスへ亡命。第2次大戦終結後、連合軍から戦時中のナチ協力を疑われ、演奏禁止処分を受ける。
1947年(昭和22) 61歳
5月25日、「非ナチ化」裁判の無罪判決をうけ、戦後初めてベルリン・フィルの指揮台に立つ。曲目はベートーヴェンの交響曲第5番“運命”、同第6番“田園”ほか。
1948年(昭和23) 62歳
10月24日、ベルリンでブラームスの交響曲第4番を指揮。実況録音が巨匠没後の1959年にLP化され、同曲最高の名演の一つと言われるようになる。
1951年(昭和26) 65歳
7月29日、バイロイト音楽祭再開記念演奏会でベートーヴェンの交響曲第9番を指揮(7月29日)。このときの録音は彼の没後にLP発売され「バイロイトの第9」として有名になる。
1952年(昭和27) 66歳
11月26、27日、EMIへベートーヴェンの交響曲第3番“英雄”をセッション録音。同曲録音集、また巨匠のセッション録音中でも屈指の名盤との評価を得る。
1953年(昭和28) 67歳
5月14日、DGへシューマンの交響曲第4番をセッション録音。巨匠の最も優れたレコーディングとして知られるもので、音楽之友社刊『新編名曲名盤300』でもこの曲のベスト・ワンとして推されている名盤。
1954年(昭和29) 68歳
11月30日、ドイツ、バーデン=バーデンにて肺炎により死去。


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