スキップしてメイン コンテンツに移動

平成版名曲新百選◉4番 紅屋の娘〜佐藤千夜子・ほんのりとしたお色気が受けた新民謡

平成版名曲新百選
第4番(昭和4年5月)
曲目
紅屋の娘
歌手
佐藤千夜子
作詞
野口雨情
作曲
中山晋平
昭和歌謡の礎を構築する時期に多大な貢献をした新民謡 ― 古賀メロディーと西條八十の大衆歌謡への橋渡し 昭和3年にパリから帰った詩人、西條八十が、初めて手を染めた大衆歌謡は、昭和3年当時の銀座の風俗スケッチをした『当世銀座節』で、情景を表すことから歌いだされる歌謡曲のスタイルが様式化して、演歌と枝分かれをしていくことになります。『東京行進曲』のB面にカップリングされた、『紅屋の娘』は第1番曲の『波浮の港』と同じく大正12年頃に作曲されています。
 大正の後半から昭和の初めにかけて、この曲の作者である野口雨情、中山晋平をはじめ、北原白秋、町田嘉章(のちの佳声)らによって展開された新民謡運動の流れの作品で、原詩は少女雑誌『令女界』大正14年3月号に掲載された「春の月」で、昭和4年に佐藤千夜子が吹き込んだ時にはタイトルが「紅屋の娘」となりました。紅屋は要するに化粧品屋で、紅花から取った頬紅や口紅を貝殻の皿に入れて売っていたことから、一般には紅屋と呼ばれていました。ほかに、東京神楽坂にあった『紅屋』がモデルだという説もあり、ここの店の2階が喫茶店で、女学生たちがたむろしていたという。「春の目覚め」を迎えた娘たちは、情緒の揺れが大きくなり、何か物思いにふけっていたかと思うと、意味もなくソワソワし、つまらないことに笑い転げ、すぐメソメソし、あらぬ事を口走ったりします。一見支離滅裂な歌詞には、そうした年頃の娘の心情がよく表されています。民謡調の美しいメロディーで、ほんのりとしたお色気が受けて、これもよくうたわれました。
 第3番曲の『東京行進曲』は日本における映画主題歌の第1号で、大ヒットとなりました。それにつられるかのように『紅屋の娘』もヒットしたので、日活と東亜キネマが競作で映画化しました。
 民謡調ののどかな曲なので今の世では気づきにくいですが、若い女性に関心の高いメイクアップのことを洒落っ気たっぷりに歌にしておりますから、当時としてはガールズ・ポップスの広告塔的存在だったのではないでしょうか。『令女界』は、今の'an.an'、'non.no'等に相当する女性誌で、20歳前後の若い女性を対象として影響力がありました。この歌のあまりのヒットぶりに、当時の文部省では全国の学校に役人を派遣し、子どもたちが学校で唱歌以外の唄を歌わないよう監視を強めました。また街頭で少年店員が「紅屋の娘」を歌わないように、巡査に取り締まって欲しいと要望した校長さえあったと伝えられています。こうしたさわぎについて雨情は昭和7年4月号の少女雑誌『令女界』で、「単にいけないとだけでは、歌曲を侮辱するだけで、一般歌曲の進歩を阻害することになる。我々は首肯するわけにはいかない。」と提唱しています。

http://img01.otemo-yan.net/usr/a/m/a/amadeusclassics/%E5%90%8D%E6%9B%B2%E6%96%B0%E7%99%BE%E9%81%B8.jpg
March 25, 2020 at 02:00PM from アナログサウンド! ― 初期LPで震災復興を応援する鑑賞会実行中 http://amadeusclassics.otemo-yan.net/e1117002.html
via Amadeusclassics

コメント

このブログの人気の投稿

♪東側の最高傑作◉フランツ・コンヴィチュニー ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 ベートーヴェン・交響曲7番

楽譜に対して客観的に誠実に取り組んで、ゆったり目のテンポでスケール大きく描きあげられた演奏と存在感あるゲヴァントハウスの音色 《独ブラック銀文字盤》DE ETERNA 825 416 コンヴィチュニー ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 ベートーヴェン・交響曲7番 旧東ドイツ時代のベートーヴェン演奏の精髄として当時大きな話題となった全集からの一枚。ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスターを終生務めたコンヴィチュニーの最高傑作で、重心の低い質実剛健な演奏は今もってひとつの基準となる名演と言えます。 序奏からズドンとヘビィ級の音塊をぶつけてきます。 ― しかし野暮ったくはない。序奏が終わっても、一切慌てず騒がず。この辺、フランツ・コンヴィチュニーならではの堂々とした音楽作りが堪能できます。 言うまでもないことですがベートーヴェンが250年前に作ったスコアを録音が発明された20世紀から以降の、120年間ほどの演奏を私たちは聞き返している。名指揮者パウル・ファン・ケンペンが死去した後、志鳥栄八郎が「あれほど騒がれていた彼が、いまそうでなくなった。演奏家というのは死んだらおしまいだ」と言っていた。とはいえ名演奏家が死後、レコードで聴き継がれるケースも有る。 どんなに録音技術が進んでも、それは生の姿を十全には伝え得ないが、演奏家の音をいたずらに増幅・美化させることも出来てしまうのが録音技術でもある。ドイツの伝統を継承する巨匠コンヴィチュニーのベートーヴェンは、彼の至芸を愛でる者にとっては格別のレコードです。 聞き手の耳をさっと捕まえてしまうような魅力には乏しいかもしれません。聞き手の耳をすぐに虜にするような愛想の良さや声高な主張もありません。まず、すぐに気がつくのは、今ではなかなか聞くことのできなくなったふくよかで暖かみのあるオーケストラの響きの素晴らしさです。きらきらした華やかさとは正反対の厚みのある響きです。弦もいいですが、特に木管群の響きが魅力的です。確かに、昨今のオーケストラと比べれば機能的とは言えないのでしょうが内部の見通しも良く透明感も失っていません。とは言え、コンヴィチュニーの基本は「淡麗辛口」です。 ドンと構えていて、ここぞというところではぐっと力こぶが入る「野蛮さ」みたいなモノが残っている演奏。隅々まで指揮者の指示が行き届...

10月17〜23日は229記事を新規投稿しました。

2022.10.17-23 クラシック音楽365日 大作曲家の生没日。名曲のゆかりの日。 10/17 作曲家・ショパンが生まれた日( 1810 年)。ポーランドで生まれるも、 21 歳でパリへ亡命し 39 歳で亡くなるまでパリで過ごした。同時代の作曲家はシューマン、リスト、ベルリオーズらである。現代でも、《夜想曲第 20 番 嬰ハ短調(遺作)》など、ピアノ作品を中心に、その演奏機会はとても多い。 2005 年の第 15 回コンクール以降はインターネットで映像がリアルタイム配信されている。 2020 年に開催予定だった第 18 回は、新型コロナウイルスの影響で翌 2021 年 10 月に延期された。 10/18 フランスの作曲家、シャルル・グノーが没した日(1893年)。ゲーテの戯曲を元にしたオペラ《ファウスト》や、歌曲《アヴェ・マリア》でも知られる。グノーがオルガニストを務めていたサン・トゥスタッシュ教会には、画家のルノワールも所属していた。グノーはルノワールの歌手としての才能を見出し、両親にルノワールをオペラ座の合唱団に入れることを提案したが、断られたという逸話も残っている。 10/19 ワーグナーのオペラ「タンホイザー」がドレスデン歌劇場で初演された(1845年)。ワーグナー32歳の頃の初期の作品であり、のちの総合芸術としての「楽劇」が生まれる前の作品である。当時初演は失敗に終わり、その後「タンホイザー」は何度も改定が加えられることになった。 10/20 アメリカの作曲家、チャールズ・アイヴズが生まれた日(1874年)。今では交響曲など、ヨーロッパをはじめ広く世界で演奏される。その経歴はユニークで、本業は保険会社の副社長。作曲は「趣味」で続けいたものの、マーラーやシェーベルクにも才能を認められ、晩年になってから注目を集めるよに。作品は実験精神に富みながらも郷土色の豊かな旋律を併せ持つ。 10/21 オーストリアのワルツ王ヨハン・シュトラウス2世作曲の《皇帝円舞曲》が、ベルリンのケーニヒツバウという新しいコンサートホールのこけら落としのために初演された日(1889年)。作曲者自身の指揮で行われた。 10/22 スペイン・カタロニア地方に生まれた今世紀最高のチェリストと呼ばれている、パブロ・...

覇王の誕生◉カラヤン ベルリン・フィル フィルハーモニア管 チャイコフスキー 交響曲4番/5番/6番

通販レコードのご案内 天に届きそうな金管、内臓をえぐるような弦、ズシリとした打楽器。 《エヴァークリーン盤》JP 東芝音楽工業(赤盤) AA7650-1 カラヤン/フィルハーモニア/ベルリン・フィル チャイコフスキー三大交響曲  初めてチャイコフスキーを聞くことに取り組むのなら、カラヤンがいい。凡百の指揮者が陥りがちな甘美なメロディだけに酔うような演奏ではなく、豪快でありながら各楽器の動きを丁寧に描ききった第4番、シンフォニックで華麗、かつ情熱的な第5番、そして『悲愴』は美しいメロディに秘められた翳りの感情が見事に表現されています。  カラヤンがどういう音楽家だったかは、チャイコフスキーを聴くと良い。カラヤンはチャイコフスキーの後期交響曲を何回も録音していますが、有名なのはダイナミックな1971年録音(EMI)、研ぎ澄まされた集中力で聴かせる1966年録音(DGG)か。本盤はステレオ初期のベルリン・フィルとの「第4番」初録音。当時のベルリン・フィルの濃密で滑らかな響きが魅了する。  カラヤンのチャイコフスキーの交響曲第4番は、フィルハーモニア管との1953年盤を筆頭に、ベルリン・フィルとは15年間で4回の録音(COLUMBIA〔EMI〕1960年、DGG1966年、EMI1971年、DGG1976年)とひしめき合っている。   戦前、戦中、戦後と、カラヤンの行く手をことごとくさえぎっていた音楽界の巨人フルトヴェングラーが、1954年11月に急逝する。これはクラシック音楽界の〝桶狭間〟だった。翌年の2月に迫った歴史的なアメリカ公演で自分たちを統率してくれる指揮者を失ってベルリン・フィルは焦った。このときドイツ政府からベルリン・フィルは、今回のアメリカ公演は絶対に成功させよと言明されており、もし病身のフルトヴェングラーに何かが起きた場合に備えてこの巨人に代わる恥ずかしくない指揮者を用意しておかなければならなかった。ベルリン・フィルは入院中の主には内緒でカラヤンに代行のアポイントを取っていた。そして不幸にも主は病死し、ベルリン・フィルはアメリカ公演の指揮者代理にカラヤンを選んだ。 「万一フルトヴェングラーの身に何か起きたときは」という条件を、カラヤンは「フルトヴェングラー博士の後継者という条件で!」と受け取り、「首席指揮者」ではなく、アメリカ楽旅の前に「終...