パリジャン、プーランク没 ― 1963年1月30日
生粋のパリジャンとして生きたフランシス・プーランクの命日である。19世紀まで音楽の背骨だったロマン派音楽が急激に解体されていく20世紀前半、特に新しい芸術がせめぎあうように生まれては消えていったパリには、世界各地から押し寄せた異能が混在していた。そういう状況の中、プーランクは若く意欲的な音楽家集団だった『フランス6人組』のひとりとして、汎ゆるジャンルに多くの作品を描いた。敬虔なカソリック教徒として宗教的題材を用いたオペラや合唱曲を書く一方で、それとは矛盾する軽妙で洒脱な世俗的な作品を書いた。特に芸術家は二律背反性が強いということだろうか。歌曲では、親しみやすい《動物詩集》や朗読とピアノのための《子象のババール》が子供向けの名作、大人にはシャンソンふうの歌曲《愛の小径》がお勧めだ。「海辺へと続く小径には、私たちの思い出が残っている」と歌われる悲しみのワルツだ。(1940年作曲、ジャン・アヌイの詩)
(歌詞大意)
海へ続く小径には 私たちの通り過ぎたその後に
恋占いのためにちぎった花びらと
私たちの二つの明るい笑いのこだまが残っているのに
ああ!幸せな日々も 輝きに満ちた喜びも飛び去り
その後を心に見出せぬまま 私はこの小径をたどる
愛の小径よ 私はお前を探し求める
失われた小径よ、お前はもういない
お前たちのこだまは聞こえない
絶望の小径 思い出の小径 初めての日の小径 愛の神々しい小径
人生はすべてを消し去るものだから
ある日、私がその小径を忘れてしまったとしても
私の心には かつての愛よりももっと強い
一つの小径の思い出が残って欲しい
そこでは、おののき心乱れた私の上で
あなたの手は熱く燃えていた
海へ続く小径には 私たちの通り過ぎたその後に
恋占いのためにちぎった花びらと
私たちの二つの明るい笑いのこだまが残っているのに
ああ!幸せな日々も 輝きに満ちた喜びも飛び去り
その後を心に見出せぬまま 私はこの小径をたどる
愛の小径よ 私はお前を探し求める
失われた小径よ、お前はもういない
お前たちのこだまは聞こえない
絶望の小径 思い出の小径 初めての日の小径 愛の神々しい小径
人生はすべてを消し去るものだから
ある日、私がその小径を忘れてしまったとしても
私の心には かつての愛よりももっと強い
一つの小径の思い出が残って欲しい
そこでは、おののき心乱れた私の上で
あなたの手は熱く燃えていた
10歳代のころから様々な文学作品に親しんでいたプーランクは、特に第二次世界大戦中に、舞台音楽の作曲を手掛けている。1940年夏、プーランクは、歌手で女優のイヴォンヌ・プランタンと、俳優のピエール・フレネーと昼食会をする機会があった。二人の役者はパリ2区にあるミショディエール劇場の監督を務めており、劇場で上演する予定の演劇作品の舞台音楽の作曲をプーランクに依頼した。作品は、20世紀フランスを代表する劇作家、ジャン・アヌイの『レオカディア』。
ミショディエール劇場での公演は世界初演で、フレネーがアルベール王子を、プランタンがアマンダを演じることになっていた。プーランクは二人からの依頼を快諾し、作品は11月30日の初日から1941年4月まで173回の公演が行われ、大成功をおさめた。その成功の一端を担ったのが、〈愛の小径〉である。 多くの劇付随音楽と同様に、《レオカディア》も、芝居の全編に渡って音楽が演奏されるのではなく、必要な箇所に必要な形の音楽をつける、というスタイルだった。
それらのうち、第3幕でプランタン演じるアマンダが歌うのが、〈愛の小径のワルツ〉である。過ぎ去った愛の思い出を歌うこの曲は、観劇客の間でたちまち話題になり、〈愛の小径〉として独立して録音され、楽譜も出版された。以降、今日もジャンルを問わず多くの歌手に愛され、また様々な楽器でも演奏されている曲である。
ミショディエール劇場での公演は世界初演で、フレネーがアルベール王子を、プランタンがアマンダを演じることになっていた。プーランクは二人からの依頼を快諾し、作品は11月30日の初日から1941年4月まで173回の公演が行われ、大成功をおさめた。その成功の一端を担ったのが、〈愛の小径〉である。 多くの劇付随音楽と同様に、《レオカディア》も、芝居の全編に渡って音楽が演奏されるのではなく、必要な箇所に必要な形の音楽をつける、というスタイルだった。
それらのうち、第3幕でプランタン演じるアマンダが歌うのが、〈愛の小径のワルツ〉である。過ぎ去った愛の思い出を歌うこの曲は、観劇客の間でたちまち話題になり、〈愛の小径〉として独立して録音され、楽譜も出版された。以降、今日もジャンルを問わず多くの歌手に愛され、また様々な楽器でも演奏されている曲である。
何よりも旋律を重視し、和声や旋法の優位という態度を決して崩さなかった作曲家。
フランス的エスプリと簡素な形式、独自の哀愁味を帯びた作風で「フランス版シューベルト」と評されることもある。プーランクはインタビューの中で「音楽でモーツァルトに勝るものはない」と言いきっているが、これは幼少時の彼にピアノを手ほどきした母親の影響である。プーランクの音楽体験はピアノから始まっているために作品にはピアノ曲が多いが、10歳の頃にシューベルトの歌曲に熱中したことがあり、このことが数多くの歌曲を生むきっかけとなった。優雅で洗練された旋律、新鮮で若々しいリズムなど、独特な作風で知られる現代フランス音楽界の重鎮である。シャルル・ケックランに学び、サティを中心とした「新しい若人」(のちに“6人組”となる)に加わり、本格的な作曲活動に入った。初期の代表作には、ディアギレフのロシア・バレエ団のために作曲したバレエ「牝鹿」(1924年)があり、「ピアノと管楽器のための六重奏曲」(1934年)、宗教曲「連禱」で彼の個性を確立した。ドルレアンの詩に作曲した「平和への祈り」(1938年)、「オルガン協奏曲」(1939年)は美しくも力強い名曲として知られている。
第2次大戦中はオーリックらとともに地下活動に加わり、1948、1950年に渡米、ボストン交響楽団の演奏会でみずからの独奏で「ピアノ協奏曲」(1949年)を初演、1951年には感動的名作「スタバート・マーテル」を作曲した。http://recordsound.jp/images/item/w270/6900/6808_1.jpg
January 30, 2020 at 05:30PM from アナログサウンド! ― 初期LPで震災復興を応援する鑑賞会実行中 http://amadeusclassics.otemo-yan.net/e1060650.html
via Amadeusclassics
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