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然るに!見よ、ティボーは弾き続けたのである◉熊本人が目を見張った 実際に聞いてみたかったとされる演奏家を当時の音で聴く。

愛奏したストラディヴァリウスも彼と命運をともにしたので、今では夢まぼろし。伝説を知るほどにティボーの音に接したくなる。

蓄音器を楽しむ会 昭和11年6月。九州中部のささやかな城下町に、時ならぬ大看板が立った。ヴァイオリンの巨匠・ティボー来る!
 第一級演奏家の来朝は中央でもまれであった当時、地方都市でいながらにティボーが聞けるとは、望外の好運である。すでにビクターの赤盤で彼の魅力に取り憑かれていた私は、文字通り雀躍(じゃくやく)した。
 ここでぜひとも、当夜の演奏会場について触れておかねばならぬ。地方都市のホールの貧相さは今も大して変りはないが、そのおりの会場は、なんと、町の歌舞伎小屋であった。引き幕に両花道、階上階下総タタミ敷という、まことに大時代の日本建築。ここで西欧一流の演奏技術を聞こうというのだから、およそ和洋折衷を絵にかいたようなもの。花のパリから遠来の巨匠に対して気恥ずかしいことおびただしかったが、それでも、まさかあれほどの椿事(ちんじ)が突発しようとはつゆ知らず、押し寄せた聴衆で会場はたちまち満員となった。
 さて、いよいよティボーの登場である。曲目はヴィタリーのシャコンヌ、モーツァルトのトルコ協奏曲、ラロのスペイン交響曲と、望みうる最上のプログラムだ。鳴りわたるストラディヴァリ。G弦の雄渾、E弦の洗練、満場ただひたすらに、ティボーの醸し出す古典の美酒に酔いしれた。
 驚天動地の大椿事は、まさにこの陶酔のさなかに起った。プログラムは進んで、モーツァルトのアダジオに入ったあたりでもあったろうか。水を打ったような会場に、異様な雑音が流れこみ始めた。遠雷のごとき太鼓の轟きと、多人数の喚声である。場外の道路のかなたから、その物音は起った。はじめは微かに、しかし確実に音量を増して、クレッシェンドに近づいてくる。ハテ、と小首をかしげた瞬間、私はその雑音の正体に気付いて、思わずあっとなった。
 この町は、加藤清正の昔より、人も知る日蓮宗総本山の巨刹(きょさつ)を有している。その宗門の行事に、雨乞いというものがある。夏季、旱天ともなれば、大勢の僧侶信徒が集結して慈雨を祈願し、一団となって市中を行進する。手に手に団扇太鼓を打ち鳴らし、高らかに南無妙法蓮華経を合唱しながら町々を練り歩くのである。思うに、その年当地は空梅雨であったらしい。いま会場前の道路にさしかかったのは、このすさまじき大音響を発する雨乞い部隊の行列であるに紛れもなかった。
 聴衆は動揺した。なにしろ前述のとおり、隙間だらけの芝居小屋である。防音装置もヘチマもない。寸刻も早く主催者側で、この一隊の通過を阻止せねば、と焦慮(しょうりょ)する暇もあらばこそ、呪うべき〈南国のリズム〉は容赦もなく近づき、乱入し、ついに耳を覆わんばかりのff(フォルテシモ)に達した。ティボーもさすがに驚いて、正面入口あたりを、ハッタと睨みつけた。もう駄目だ!
 冷汗三斗(れいかんさんと)どころではない。私は目の前が真っ暗になった。当然、ティボーは憤然として演奏を中止するだろう。誇り高き天下の名匠、なによりもエレガンな雰囲気を生命とする生粋のパリジャンである。こんな原始的な雑音に蹂躙(じゅうりん)されて演奏が続行できるか、会は即刻打ち切り、音楽家は席を蹴って退場 ―ー するに違いないと、私は観念の目を閉じた。

 しかるに!見よ、ティボーは弾きつづけたのである。

 一瞬の激昂(げっこう)から、彼はすぐさま立ち直った。騒音の遠ざかるにつれて、コンディションの乱れを懸命に克服した。この不幸な事故は聴衆の責でない、彼らは終始熱烈に音楽を享受しているのだ。彼はそう達観したに違いない。予定のプロをみな弾いた。幾つかのアンコールすら、鄭重(ていちょう)に応えた。この夜、私たちの感動と、ティボーに与えた賞賛が爆発的であったのは、三十年をけみした今日、いまだ記憶になまなましい。


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