通販レコードのご案内難解だとされるマーラーの第6番だが、アバドは見事なまでに明快な音楽に仕上げている。
《独ブルーライン盤》DE DGG 2531 232-3 アバド、シカゴ響 マーラー・交響曲6番『悲劇的』
クラウディオ・アバドによる第1回目のマーラー・ツィクルスから、シカゴ交響楽団との交響曲第6番。難解だとされるマーラーの第6番だが、アバドは見事なまでに明快な音楽に仕上げている。アバドの明快な作品解釈とシカゴ響のパワフル且つ透徹した響きが共鳴し合い、複雑な構成を見せる難曲を見通しの良い演奏で聴き手に提示してくれています。マーラーの演奏スタイルを世紀末的混沌や肥大化した感情表現から解放し、音楽的なアプローチから作品の本質に迫った画期的な演奏だ。
主旋律を強調するあまり複音楽的な多彩さがあまり聞こえてこない不足は、アバドのマーラー演奏全般に言えることであるが、マーラーになじみのなかった時代の啓蒙的な演奏としては存在価値があった。
第2次大戦後その伝統を引き継いだ代表的な音楽家はアメリカ人のレナード・バーンスタインであり、「ユダヤの血の共感」ともいうべき濃厚な演奏解釈こそがマーラーの本質を伝えるものだというイメージが作り上げられていく一方で、さらにその次の世代の音楽家は、そうした民族的共感を超えて、マーラー作品の精緻なオーケストレーションに目を向け、過度な感情移入を加えずに作品の姿をあるがままに提示する演奏を行なうようになりました。そうしたマーラー演奏の第3世代の代表的な指揮者の一人がクラウディオ・アバドだった。
1956年からウィーン国立音大に留学したアバドは、第2次大戦で瓦礫と化したウィーンの街が力強く復興していく時代にブルーノ・ワルター晩年の指揮を身近に見ることができた世代でもあり ― ワルターの指揮でモーツァルト「レクイエム」の合唱にも参加しています。また1960年のマーラー生誕100年を身近に体験することにもなりました。
そして1958年、タングルウッドでの指揮者コンクールでクーセヴィツキー賞を受賞し、さらに1963年のミトロプーロス指揮者コンクールで優勝したアバドが1965年のザルツブルク音楽祭デビューで取り上げたのがマーラーの交響曲第2番「復活」でした。ウィーン・フィルを指揮したこの「復活」はセンセーショナルな成功を収め、直ちに翌年のウィーン・フィルの定期に招かれるなど彼の国際的なキャリアを開くきっかけとなった重要な演奏でした。
さらにマーラー指揮者としては、イタリア国内のみならず、1967年のウィーン芸術週間で開催されたマーラー交響曲全曲演奏にも招かれ、難曲・第6番を担当するなど、その名声を高めていきます。
アバドは1960年代後半からウィーン・フィルやロンドン交響楽団と英デッカに録音を開始し、1970年代に入るとドイツ・グラモフォンにも次々と録音を行なうようになりましたが、アバドと同世代で同じマーラー演奏の第3世代でもあるメータやマゼールが早々とマーラーの録音を手掛けたのとは対照的に、アバドは時を待ち、ようやく1976年になってから、当時ショルティのもとで客演指揮者待遇にあったシカゴ交響楽団とともに初めてマーラーの交響曲の録音を行ないました。1965年のザルツブルク音楽祭での圧倒的な成功から10年を経て、アバドの解釈はさらに精緻を極め、ショルティ時代の真っただ中にあって恐るべきパワーとヴィルトゥオジティを備えた機能的オーケストラに変貌を遂げていたシカゴ響を起用することで、マーラーの複雑なオーケストレーションが圧倒的な精度で再現されています。当時のレコード評にもあるように、特に緊張感に満ちた弱音領域のデリケートな表現力はこの時期のアバドならではといえるでしょう。
アバドのマーラー演奏として典型的なものとも言える。聞きやすくまとめているが、この曲でそれをやってしまうと、卑俗さが出てしまう。この第6番『悲劇的』は、それほど難しい曲なのです。
主旋律を強調するあまり複音楽的な多彩さがあまり聞こえてこない不足は、アバドのマーラー演奏全般に言えることであるが、マーラーになじみのなかった時代の啓蒙的な演奏としては存在価値があった。
マーラーが書き込んだ極端な表現主義的指示 ― 弦のポルタメント、テンポの急激な変化、特定の楽器のバランスを突出させるなどを文字通り遵守するのではなく、全体の響きの中で調和させたアバドの解釈は、1980年代になって本格的に花開く世界的なマーラー・ブームの中で、LPジャケットを飾ったカラフルな孔雀羽の写真、ユーゲントシュティール風のフォントとともに、マーラー交響曲解釈の一つのスタンダードとなったのでした。
マーラーの交響曲は、まずマーラー自身が指揮者として各地で演奏し、さらに1911年にマーラーが死去してからは、ブルーノ・ワルター、オスカー・フリート、オットー・クレンペラーなど、主に作曲者と直接かかわりのあった19世紀生まれの弟子筋にあたるユダヤ系の指揮者たちによって広められ、20世紀前半の演奏伝統が形成されていきました。第2次大戦後その伝統を引き継いだ代表的な音楽家はアメリカ人のレナード・バーンスタインであり、「ユダヤの血の共感」ともいうべき濃厚な演奏解釈こそがマーラーの本質を伝えるものだというイメージが作り上げられていく一方で、さらにその次の世代の音楽家は、そうした民族的共感を超えて、マーラー作品の精緻なオーケストレーションに目を向け、過度な感情移入を加えずに作品の姿をあるがままに提示する演奏を行なうようになりました。そうしたマーラー演奏の第3世代の代表的な指揮者の一人がクラウディオ・アバドだった。
1956年からウィーン国立音大に留学したアバドは、第2次大戦で瓦礫と化したウィーンの街が力強く復興していく時代にブルーノ・ワルター晩年の指揮を身近に見ることができた世代でもあり ― ワルターの指揮でモーツァルト「レクイエム」の合唱にも参加しています。また1960年のマーラー生誕100年を身近に体験することにもなりました。
そして1958年、タングルウッドでの指揮者コンクールでクーセヴィツキー賞を受賞し、さらに1963年のミトロプーロス指揮者コンクールで優勝したアバドが1965年のザルツブルク音楽祭デビューで取り上げたのがマーラーの交響曲第2番「復活」でした。ウィーン・フィルを指揮したこの「復活」はセンセーショナルな成功を収め、直ちに翌年のウィーン・フィルの定期に招かれるなど彼の国際的なキャリアを開くきっかけとなった重要な演奏でした。
さらにマーラー指揮者としては、イタリア国内のみならず、1967年のウィーン芸術週間で開催されたマーラー交響曲全曲演奏にも招かれ、難曲・第6番を担当するなど、その名声を高めていきます。
アバドは1960年代後半からウィーン・フィルやロンドン交響楽団と英デッカに録音を開始し、1970年代に入るとドイツ・グラモフォンにも次々と録音を行なうようになりましたが、アバドと同世代で同じマーラー演奏の第3世代でもあるメータやマゼールが早々とマーラーの録音を手掛けたのとは対照的に、アバドは時を待ち、ようやく1976年になってから、当時ショルティのもとで客演指揮者待遇にあったシカゴ交響楽団とともに初めてマーラーの交響曲の録音を行ないました。1965年のザルツブルク音楽祭での圧倒的な成功から10年を経て、アバドの解釈はさらに精緻を極め、ショルティ時代の真っただ中にあって恐るべきパワーとヴィルトゥオジティを備えた機能的オーケストラに変貌を遂げていたシカゴ響を起用することで、マーラーの複雑なオーケストレーションが圧倒的な精度で再現されています。当時のレコード評にもあるように、特に緊張感に満ちた弱音領域のデリケートな表現力はこの時期のアバドならではといえるでしょう。
アバドのマーラー演奏として典型的なものとも言える。聞きやすくまとめているが、この曲でそれをやってしまうと、卑俗さが出てしまう。この第6番『悲劇的』は、それほど難しい曲なのです。
1979年2月シカゴ、オーケストラ・ホールでのステレオ・セッション録音。
http://img01.otemo-yan.net/usr/a/m/a/amadeusclassics/34-23159.jpg
August 31, 2019 at 05:15PM from アナログサウンド! ― 初期LPで震災復興を応援する鑑賞会実行中 http://amadeusclassics.otemo-yan.net/e1104341.html
via Amadeusclassics
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