スキップしてメイン コンテンツに移動

世紀末的混沌や肥大化した感情表現から解放◆パワフル且つ透徹した響きが共鳴し合う アバド シカゴ響 マーラー・交響曲6番

通販レコードのご案内難解だとされるマーラーの第6番だが、アバドは見事なまでに明快な音楽に仕上げている。

DE DGG 2531 232-3 アバド・シカゴ響 マーラー・交響曲6番《独ブルーライン盤》DE DGG 2531 232-3 アバド、シカゴ響 マーラー・交響曲6番『悲劇的』
 クラウディオ・アバドによる第1回目のマーラー・ツィクルスから、シカゴ交響楽団との交響曲第6番。難解だとされるマーラーの第6番だが、アバドは見事なまでに明快な音楽に仕上げている。アバドの明快な作品解釈とシカゴ響のパワフル且つ透徹した響きが共鳴し合い、複雑な構成を見せる難曲を見通しの良い演奏で聴き手に提示してくれています。マーラーの演奏スタイルを世紀末的混沌や肥大化した感情表現から解放し、音楽的なアプローチから作品の本質に迫った画期的な演奏だ。
 主旋律を強調するあまり複音楽的な多彩さがあまり聞こえてこない不足は、アバドのマーラー演奏全般に言えることであるが、マーラーになじみのなかった時代の啓蒙的な演奏としては存在価値があった。
マーラーが書き込んだ極端な表現主義的指示 ― 弦のポルタメント、テンポの急激な変化、特定の楽器のバランスを突出させるなどを文字通り遵守するのではなく、全体の響きの中で調和させたアバドの解釈は、1980年代になって本格的に花開く世界的なマーラー・ブームの中で、LPジャケットを飾ったカラフルな孔雀羽の写真、ユーゲントシュティール風のフォントとともに、マーラー交響曲解釈の一つのスタンダードとなったのでした。
 マーラーの交響曲は、まずマーラー自身が指揮者として各地で演奏し、さらに1911年にマーラーが死去してからは、ブルーノ・ワルター、オスカー・フリート、オットー・クレンペラーなど、主に作曲者と直接かかわりのあった19世紀生まれの弟子筋にあたるユダヤ系の指揮者たちによって広められ、20世紀前半の演奏伝統が形成されていきました。
 第2次大戦後その伝統を引き継いだ代表的な音楽家はアメリカ人のレナード・バーンスタインであり、「ユダヤの血の共感」ともいうべき濃厚な演奏解釈こそがマーラーの本質を伝えるものだというイメージが作り上げられていく一方で、さらにその次の世代の音楽家は、そうした民族的共感を超えて、マーラー作品の精緻なオーケストレーションに目を向け、過度な感情移入を加えずに作品の姿をあるがままに提示する演奏を行なうようになりました。そうしたマーラー演奏の第3世代の代表的な指揮者の一人がクラウディオ・アバドだった。
 1956年からウィーン国立音大に留学したアバドは、第2次大戦で瓦礫と化したウィーンの街が力強く復興していく時代にブルーノ・ワルター晩年の指揮を身近に見ることができた世代でもあり ― ワルターの指揮でモーツァルト「レクイエム」の合唱にも参加しています。また1960年のマーラー生誕100年を身近に体験することにもなりました。
 そして1958年、タングルウッドでの指揮者コンクールでクーセヴィツキー賞を受賞し、さらに1963年のミトロプーロス指揮者コンクールで優勝したアバドが1965年のザルツブルク音楽祭デビューで取り上げたのがマーラーの交響曲第2番「復活」でした。ウィーン・フィルを指揮したこの「復活」はセンセーショナルな成功を収め、直ちに翌年のウィーン・フィルの定期に招かれるなど彼の国際的なキャリアを開くきっかけとなった重要な演奏でした。
 さらにマーラー指揮者としては、イタリア国内のみならず、1967年のウィーン芸術週間で開催されたマーラー交響曲全曲演奏にも招かれ、難曲・第6番を担当するなど、その名声を高めていきます。
 アバドは1960年代後半からウィーン・フィルやロンドン交響楽団と英デッカに録音を開始し、1970年代に入るとドイツ・グラモフォンにも次々と録音を行なうようになりましたが、アバドと同世代で同じマーラー演奏の第3世代でもあるメータやマゼールが早々とマーラーの録音を手掛けたのとは対照的に、アバドは時を待ち、ようやく1976年になってから、当時ショルティのもとで客演指揮者待遇にあったシカゴ交響楽団とともに初めてマーラーの交響曲の録音を行ないました。1965年のザルツブルク音楽祭での圧倒的な成功から10年を経て、アバドの解釈はさらに精緻を極め、ショルティ時代の真っただ中にあって恐るべきパワーとヴィルトゥオジティを備えた機能的オーケストラに変貌を遂げていたシカゴ響を起用することで、マーラーの複雑なオーケストレーションが圧倒的な精度で再現されています。当時のレコード評にもあるように、特に緊張感に満ちた弱音領域のデリケートな表現力はこの時期のアバドならではといえるでしょう。
 アバドのマーラー演奏として典型的なものとも言える。聞きやすくまとめているが、この曲でそれをやってしまうと、卑俗さが出てしまう。この第6番『悲劇的』は、それほど難しい曲なのです。
1979年2月シカゴ、オーケストラ・ホールでのステレオ・セッション録音。

http://img01.otemo-yan.net/usr/a/m/a/amadeusclassics/34-23159.jpg
August 31, 2019 at 05:15PM from アナログサウンド! ― 初期LPで震災復興を応援する鑑賞会実行中 http://amadeusclassics.otemo-yan.net/e1104341.html
via Amadeusclassics

コメント

このブログの人気の投稿

日本でも会員向けにLPを配布していたコンサートホールが築いたクラシック・レコード全盛期

通販レーベルだからできたクラシック・レコードの全盛期 かつて世界最大のレコード通販会社として君臨したコンサートホール・ソサエティ(略称CHS)は、スイスを本拠地として、英米独仏だけでなく遠くアジアの日本などに販売網を広げていました。残念ながら経営に行き詰まり、70年代前半倒産しましたが、EMI、DECCA、COLUMBIAと云ったメジャーレーベルから漏れた隠れた演奏には名演も多く、貴重な文化遺産となっています。 かつてコンサートホール・ソサエティはオリジナル音源を有し、1970年代半ばまで日本でも会員向けにLPを配布していました。その後、CD時代になってからは、多くの音源の中から日本では唯一ライセンスを受けている日本コロムビアからCDが発売されておりましたが、1997年のリリースを最後に再発売も途切れておりましたが、2013年に見直されました。2014年以降はストリーミングの大幅増加。利用者の有料音楽との付き合い方の激変、音楽ソフトは新型コロナウイルス流行という特殊事情もあり、規模を縮小。 永世中立国スイスならでは。会員向けにLPを配布していた「コンサートホール」は、Youtubeの現在に於ける役割に等しい。コンサートホールは、当時の指揮者やオーケストラはレコード会社の専属契約に縛られていたことにより、(ドイツ・グラモフォン専属のカラヤンが常任指揮者を務めるウィーン・フィルがデッカ専属だったために、レコード録音の期間だけ移籍している)契約上許される組み合わせでしかレコーディングが許されていなかった時代において、既存の枠組みを超越した斬新な共演や、シューリヒトや当時新鋭であったブーレーズを含む豊富な指揮者陣、そして独特な制作コンセプトにより瞬く間に世界中で会員が増え、クラシック・レコードのある意味全盛期のひとつを築いた。 当時日本国内だけで50万人以上の会員がいた。会員になると、毎月「音楽委員」が推薦する名盤である「今月のレコード」が普通価格より35%も安く買うことができる。年間会費を送金しておくと、毎月レコードが送ってくる。年数回はボーナスレコードも届く。インターネットのなかった時代に、都会のレコードショップに行くしかなかったレコード愛好家にとって恩恵だった。 1972年の恩師ディアギレフの生誕100年を記念して録音したロシア・バレエ団のために...

平成版名曲新百選◉3番 東京行進曲〜佐藤千夜子・朝ドラにもなった流行歌手第1号の金字塔、昭和の歌謡曲第1号

第3番 (昭和4年5月) 曲目 東京行進曲 歌手 佐藤千夜子 作詞 西條八十 作曲 中山晋平 昭和の歌謡史の第一ページ ― 映画主題歌の第1号  昭和の初め、現代流行歌の草分け時代。中山晋平メロディーで幕を開け、古賀政男の出現によって日本中を席巻し、黄金期を迎えます。それは支那事変が起こって戦況が悪化、音楽が統制下に置かれる昭和10年まで続きます。  昭和の初め、娯楽雑誌として日本一の発行部数を誇っていた「キング」に掲載された、菊池寛の評判小説を日活が映画化するに当たって、ビクターがタイアップして作った映画主題歌で、昭和4年5月発売されるや爆発的なヒットとなりました。  昭和の初め、日本歌謡界のクイーンは佐藤千夜子でした。本名は千代、山形県出身で、上野の音楽学校に学んでいた彼女が、中退して中山晋平の作曲した童謡や新民謡を歌って、レコード以前からその声価は高かったものです。ビクター専属のレコード歌手第1号として吹き込んだ『波浮の港』は15万枚、映画主題歌『東京行進曲』が25万枚の大ヒットは驚異的なものでした。昭和の歌謡史の第一ページに深く刻まれた彼女の輝く足跡は、いつまでも消えないでしょう。  歌詞は、関東大震災から立ち直った東京のモダン風俗をうたったものですが、ヒット・ソングを映画化した大正時代の小唄映画と違って、これは映画とレコードが同時に企画製作された最初の作品で、映画主題歌の第1号といえる記念すべき作品です。  冒頭に〝昔恋しい銀座の柳〟という詞がありますが、銀座の柳並木は明治期にイチョウに切り替えられ、この歌より6年前の関東大震災でそれも壊滅状態となっていました。この歌の当時はプラタナスになっていましたが、曲の大ヒットで< 銀座に柳を復活させよう >の気運が盛り上がり、銀座に柳が復活しました。後に作詞作曲も同じメンバーで「銀座の柳」が作られ完全復活が宣言されました。折角の銀座の柳も太平洋戦争の東京大空襲などで壊滅し、現在は4代目だそうです。 http://img01.otemo-yan.net/usr/a/m/a/amadeusclassics/%E5%90%8D%E6%9B%B2%E6%96%B0%E7%99%BE%E9%81%B8.jpg March 24, 2020 at 11:55PM from アナログ...

真の永遠のベストセラー◉名演にも勝るカール・リヒターの高潔な演奏と解釈 ミュンヘン・バッハ管 バッハ・マタイ受難曲

カール・リヒターの代名詞的録音ともいわれる、決定的名盤。バッハ演奏において一時代を築いたリヒターの最初の「マタイ受難曲」の録音で、その後のバッハ演奏、あるいは「マタイ」演奏に多大な影響を与えた録音。 《独ステレオ・カーヴ with silver "Alle Hersteller“ ED1 布張りボックス、背表紙「逆さ文字」最初期盤》DE ARCHIV SAPM198 009/12 カール・リヒター バッハ・マタイ受難曲 旧東ドイツの牧師の息子に生まれたリヒターは、1950年代から70年代に峻厳な気迫を湛えた入魂の演奏で、現代人の心に強くアピールする清新なバッハ像を打ち立てた。  バッハの《マタイ受難曲》は宗教音楽の金字塔というだけでなく、〝人類最高の音楽遺産〟ともいうべき不滅の傑作である。日本の音楽ファンにも、そう確信させたのが1969年5月の東京で、リヒターが手兵のミュンヘン・バッハ管弦楽団&合唱団と演奏した《マタイ受難曲》であったかもしれない。バッハの化身とまで謳われ、20世紀のバッハ演奏に大きな足跡を残したカール・リヒターによる《マタイ受難曲》は現在4つの録音があり、本盤は1958年録音盤。レコード発売以来、恐らく日本だけで50万セット以上は売れたであろう、クラシックのレコード史上に輝く作品。  リヒターによるバッハ演奏、なかでも大作《マタイ受難曲》(1958年録音)から始まったここでの4大宗教作品の録音は、それまでの伝統に立脚した解釈・演奏とは一線を画したものとして、今日のバッハ演奏として定着した感のあるオリジナル楽器にも匹敵し、それらをも上回るリヒターの確信と解釈とによって絶大な名声を博してきました。なかでも《マタイ受難曲》は1959年のレコードによる発売以来、CD時代となった現在でも、その演奏水準の高さ、各ソリストの名演、そして何にも勝るリヒターの高潔な演奏と解釈が普遍性を示したものとして、真の永遠のベストセラーとして支持され続けてきました。  バッハが作曲した「マタイ受難曲」が西洋音楽の最高峰だという事には殆ど誰も異論を挟まない。この曲を知らずに死んでもどうって事は無いが、人類最大の音楽遺産を聴く喜びを知らずに死んだ事になる、と多くの先人が書いているし私も同感だ。イエスの死と復活を扱ったこの曲はキリスト教を信じるか、信じ...