フルトヴェングラーの魂の告白 ― 涙の追いつけないテンポこそが壊滅を目前にしたドイツにふさわしい挽歌だ。
《仏ラージ・ドッグ・セミサークル黒文字、レア盤》FR VSM FALP30033 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー モーツァルト・交響曲40番 第2次世界大戦時中もドイツに残り、ひとり指揮をし続けたという大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1986〜1954年)。戦時中の1944年1月のベルリン大空襲の際、ベルリン・フィルの当時の本拠地だった旧ベルリン・フィルハーモニーホールは炎上し焼け落ちてしまった。そのため以降の演奏会は、アドミラル・パラストで行われていた。ここは戦禍を逃れ、大戦前の建物としてベルリンでは数少ない貴重な建物として残っている。戦後は、同じく建物を失ったベルリン国立歌劇場管弦楽団が、本拠地再建後の1955年に再開するまで、ここで演奏会とオペラの上演を行った。戦後まもなくメニューインを迎えて、ユダヤ人コミュニティーを支援するチャリティーコンサートを開いている。1945年1月23日、フルトヴェングラーのベルリンでの戦中最後の演奏会がアドミラル・パラストで開かれた。連合軍の激しい空襲がいつやってくるか分からない、そんな状況でのコンサート。プログラムは、モーツァルトの「魔笛」序曲、交響曲第40番。そして、ブラームスの交響曲第1番であった。
「魔笛」序曲の次に控える曲は、フルトヴェングラーにとって例外的に厄介な交響曲第40番だった。巨匠は背筋を伸ばし、ステージに向かって力強く歩みを進めた。会場は割れんばかりの拍手で満ちた。顔の前に構えた指揮棒が暫時ためらうように震えていたが、やがて空を斬り、冒頭の分散和音の緊迫した、さざ波をヴィオラ群が奏で、すぐにヴァイオリン群がモーツァルトが書いた旋律の中でも白眉な名旋律を歌い出した。
それはスタンダールの言う“甘美な憂愁”ではなく、寂寥と結晶化した悲哀をフルトヴェングラーは表出させる。この誰よりも速く疾走する、涙の追いつけないテンポこそが壊滅を目前にしたドイツにふさわしい挽歌だと、この時の巨匠にとって、この曲の本質であるべきだった。
交響曲第40番は第1楽章を終え、第2楽章が演奏され始めたところで空襲警報が鳴り突如ホールの照明が消える。薄暗い非常灯の中で演奏は、しばらく続いたが、やがて力尽きるように旋律は絶たれる。団員も観客もまんじりともせず事態を見守った。何が起きてもおかしくない状況だったが、誰も席を立とうとしなかったという。それから1時間後、公演は再開された。
曲はモーツァルトではなく、後半に予定されていたブラームスの交響曲第1番。残念ながら全曲が録音されることはなかったが、誰かの意地だったのだろう、ブラームスの交響曲第1番の終楽章だけが残されている。その演奏後の拍手が尋常じゃなく、終楽章の演奏がどうこうではなく拍手のためにある録音だ。そのおそろしい状況下での演奏は、聴く者の想像を絶する。「命がけ」とか「死と隣り合わせ」とか、そうした言葉の形容が軽く感じられる。鑑賞とは別の次元の体験をさせられることになるフルトヴェングラーの演奏の記録の中でも最も特殊な演奏のひとつだ。
停電が復旧後にフルトヴェングラーは中断したモーツァルトを続けなかったのは何故か、おそらく停電でフルトヴェングラーの心中が変生したのだろう。間もなく彼はスイスへ亡命することとなる。その翌朝、彼はヒトラー暗殺未遂事件への関与で何時逮捕されても不思議ない状況であることを友人から告げられる。折しもウィーンでのコンサートが予定されていたので、これを理由に、この日のコンサートが終わるとすぐ夜行列車に乗り、プラハ経由でウィーンに向かった。結果ベルリンの友人・同僚、そして、彼のオーケストラであるベルリン・フィルハーモニーにも何も告げずにベルリンを去った。
ウィーンに着いたのは翌25日のことである。この日は彼の59歳の誕生日であった。今度は、彼はウィーンでちょっと転んで怪我をしたのを理由に、その後のベルリンでのコンサートをキャンセルしてスイスに渡り、いくつかのコンサートを指揮する。これらがフルトヴェングラーの戦中の最後のコンサートとなってしまった。1945年1月23日。この日の公演は午後3時から始まった。夜は空襲があるからという理由だ。そして、この日の連合軍の爆撃音を聞くことができる。ベルリンの人々の音楽への狂気ともいえる情熱を感じるのだが、この1月23日にはギーゼキングによる「皇帝」のコンサートが開かれており、そのときの録音が残っていて、そこに爆撃音がはっきりと残っているのである。フルトヴェングラーがベルリンを去っても、ベルリン・フィルはコンサートを続行した。
戦中最後のコンサートは1945年4月16日に行われた。それから2週間後にヒトラーは自殺し第二次大戦は終焉を告げる。フルトヴェングラーが彼のオーケストラを残して一人旅立つ断腸の思いの籠った、この「音」が頭の中からどうしても消えない。そして聴衆は一体どういう思いでこの「拍手」をしたのか。この拍手には楽団員の気持ちも含まれているだろう。それを想像すると、ぞっとする。それは、第二次世界大戦後の「ト短調交響曲」の演奏にまったく影を投げかけていないとは考えられない。戦後唯一のベルリン・フィルの定期は、1949年6月のことであり、名演として知られるウィーン・フィルとの録音は、その前年になされている。
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via Amadeusclassics
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