ウィンナ・ワルツの名指揮者シュトルツ没 ― 1975年6月27日
ウィーンという町には1年365日、朝から夜中まで音楽が鳴り響いている。夜中であったにもかかわらず、シュテファン大聖堂の建物そのものから厳かな宗教音楽が聴こえてくるのを味わうことも出来るほど、教会でのレコード録音は深夜を徹して行われている。ウィーン音楽の王様はシュトラウス・ファミリーだが、20世気に入ってからのウィーンの楽壇で、指揮者・作曲家として大活躍したロベルト・シュトルツの音楽も、ウィーン情緒を満喫させてくれる。オペレッタやワルツに大ヒットがあるが、今日の命日には、100曲を超すという民謡風の歌曲から、ウィーンっ子がみなうたった《プラターに再び花は咲いて》を聴こう。映画「第三の男」で有名になった大観覧車のあるプラター公園の春を讃えた歌で、「プラター公園は花ざかり」というタイトルでも呼ばれている。
通販レコードのご案内 DE DECCA SBA25 046-D/1-4 ロベルト・シュトルツ レハール・メリー・ウィドウ/ジュディッタ
シュトルツにとっては、ヨハン・シュトラウスの作品をオリジナルな形でレコードに入れて後世に遺すことこそ、指揮者としての活動の頂点であることを意味すると云っていたのを読んだ事が有ります。ウィーンは音楽の都で数々の彫像や記念碑や街の通りにシューベルト、ブラームス、モーツアルト、ヨハン・シュトラウスといった大作曲家の彫刻が有ります。いずれも、生まれながらの(あるいはあとから住みついた)ウィーン市民でした。作曲家であり指揮者であり、無冠のワルツ王の最後の人であるロベルト・シュトルツも、ウィーン音楽の生き字引としてこうしたカテゴリーに入るのではないか。1887年に天才少年ピアニストとして初めてヨーロッパを旅行してから今日に至るまで、ロベルト・シュトルツはその人生を音楽にささげてきたのである。その間には2,000曲の歌、50のオペレッタ、100にのぼる映画音楽を作曲し、数百回のレコーディングを行っているという。本盤もそうした中のセット。皆様をウィーンに誘う魅力タップリです。
ウィンナ・ワルツの伝統を保持する最後の指揮者
ウィーン・オペレッタ最末期の作曲家の一人として『春のパレード』などの作品を発表し人気を得たロベルト・シュトルツは、指揮者でオペレッタも50作品以上発表している作曲家。1880年8月25日にグラーツに生まれたロベルトは、父親に音楽教師、母親はピアニストであったという。グラーツで父の元で学んだ後、ウィーンに出て、19世紀末のウィーンで大変な人気を誇る作曲家であったロベルト・フックスに学び、更にベルリンに行って歌劇「ヘンゼルとグレーテル」の作曲家としても名高いフンパーディンクに師事した。ウィーンに戻った若いシュトルツは、晩年のヨハン・シュトラウスとも会っているが、これは彼の生涯にわたって強い影響を与えた。1900年に20歳のシュトルツ青年は、マールブルク市立歌劇場で指揮者としてデビューし、1903年には彼が作曲した喜歌劇「麗しのローラ」で成功し、流行作曲家としてもスタートは、わずか25歳の若さでウィーンのアン・デア・ウィーン劇場の楽長に就任する大出世をつかむ。
1910年に書いたオペレッタ「幸運の乙女」が700回以上の公演を行う大ヒット作となり、彼はシュトラウスの正に正統な後継者としてウィーンに確固とした地位を築いた。彼は50曲あまりのオペレッタと1000曲にも及ぶ歌曲を残したが、その多くがこの戦前のウィーンで書かれたものである。その中には「プラター公演は花盛り」や「二人の心はワルツを奏で」などの名作が書かれたのだ。前者の歌はウィーンっ子ならば知らない人はいないだろう。
作品番号が2,000に達するという稀にみる多作家であり、「20世紀のヨハン・シュトラウス」と称えられた。映画で主に作品が残されていて、彼の死去でオペレッタ100年の歴史が終焉しました。それにまた、レコードの録音中に死亡した最初の音楽家ではないかしら。
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via Amadeusclassics
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